いつかのバルスの日まで

言いたいだけです。

理由やドラマがないと動けない病

タイトルの通り。
今までの経験をよくよく振り返ってみると、何かを決断するときって理由やドラマがあってこそ…じゃないんだよな。
だいたいは時間切れ、体のいい言葉で言えば、必要に迫られたから決めてきたことであって、明確な理由があったわけじゃないし、そこにドラマみたいな衝撃的な出会いがあったわけでもない。
もちろん、何かを決めるときには理由が必要で、これがこうだからこうです、と言うことはできる。大人になって、その精度は増している。
ドラマチックな展開に一度も出くわしてこなかったか?と問われれば、ノーだ。
素晴らしい出会いや経験、もう死んでもいいや!って思える瞬間もあった。
でも、そこに連続性はない。物語じゃない。現象があっただけだ。
本当にそうだ。現象があるだけ。

みんなに動けと言われて動いてる。
そのまま寝てていいよ、と言われたら、きっと最もらしい理由や感情を拵えて、寝てるかもしれない。

理由やドラマは後からついてくる。
後から勝手に構築される。

だから動き出すのに理由が必要なんじゃない。
必要なのは現象。

やる気を出すには、まずやってしまうことって結構言われてるけど、それは、多分全くもってその通りで。
でも突き詰めれば、やる気だって、お腹痛いとかそういうものと一緒で、生理的なものなんじゃないかな。
目標に対してやる気があるんじゃなくて、たまたま目標に対して行っている行動に、やる気っていう生理的な感情が付随したってことなんじゃないかな。

話を戻す。
理由やドラマがなければ動けない病は、当たり前でバカだ。
理由やドラマは現象に対する後付けで、それが行動を規定するんじゃない。

だから、理由やドラマで動こうとすると必ず失敗する。

じゃあ何が行動を規定するのかは、まぁ巷でいっぱい言われてるから割愛する。

問題は、ふとした瞬間に本当にお粗末なイメージと理由で動こうとして動けないときが多々あるということ。

筋トレしよう!
健康にいいから。カッコいいから。

これだけで本気で動こうとしてる。
これだけしか考えてないのに、できないと自分には計画性がないとか、そこまで筋トレに対して思いがあるわけでもないとか、くだらない思考とか感情とかが生まれる。

当たり前だ。

自然と身体が筋トレしちゃう。
っていうのが筋トレしてる人の本心だろう。でも本人に筋トレする理由を聞いたら、ちゃんとした答えが返ってくる。それを鵜呑みにして、だから僕はできる、あるいはできないと判断するのは愚かだ。

そういう判断の仕方は病気だ。

日本語が下手すぎるけどまぁいいや。